にせ茶人の歴史ブログ

『毛利家文書』、『明智軍記』、『宗長日記』、そのほか茶道関係の史料を読んでいます。

【原文】志道広良言上状(『毛利家文書』593)

此 御書御両通、昨日今朝被下候、御拝見ニ入申候へとハ御意候ハねとも、某か拝見申たるはかりハ無曲候条、進上候、如此之御庭訓ハ誠之金言ニて御座候歟、御家来之事、武具衣装ハ結構ニ見え申候、人々の嗜うすく候歟、 大将を御立候方々さまハ、忠否をわけられ、賞伐の二つを御行候ハてハと存候、乍賞のかたをハ厚く、伐のかたをハうすく可被仰付候か、君ハ船、臣ハ水ニて候、水よく船をうかへ候事ニて候、船候も水なく候へハ不相叶候歟、又々かしく、

     五ノ廿八   瑞如(花押)

(捻封ウハ書)

(墨引)        上野介

  雅楽充殿 進之候   広良」

 

【読み下し】

この御書御両通、昨日・今朝下され候、御拝見に入れ申し候へとは御意候わねども、某が拝見申したるばかりは無曲候条、進上候、かくの如きの御庭訓は誠の金言にて御座候か、御家来の事、武具・衣装は結構に見え申し候、人々の嗜み薄く候か、大将を御立て候方々様は、忠否を分けられ、賞罰の二つを御行い候わでわと存じ候、さりながら賞の方をば厚く、罰の方をば薄く仰せ付けらるべく候か、君は船、臣は水にて候、水よく船を浮かべ候事にて候、船候も水なく候えば、相叶わず候か、又々かしく、

 

【現代語訳】

この書状二通は、昨日と今朝、元就様から頂戴しました。元就様は「隆元に拝見させよ」とはおっしゃっていませんが、私が拝見しただけでは意味がないので、進上いたします。このような庭訓(親が子に与える教訓)は、本当に名言ではないでしょうか。隆元様の御家来は、武具・衣装は結構に見えます。しかし彼らに対する隆元様の日頃の心がけは、薄いのではないでしょうか。大将を立てる方々様に対しては、忠義・不忠を峻別して、恩賞と罰を与えなければならないと思います。しかし恩賞のほうを厚く、罰のほうを薄く仰せ付けるべきではないでしょうか。主君は船で、家臣は水です。水はよく船を浮かべるものです。船があっても水がなければ、しょうがないのではないでしょうか。またまたかしく。

 

 

【コメント】

毛利家重臣の志道広良が、毛利隆元へ宛てた書状です。

 

この史料自体は、かなり有名だと思います。

 

特に終わりのほうの、「君は船、臣は水にて候、水よく船を浮かべ候事にて候、船候も水なく候えば、相叶わず候か」は、戦国大名と家臣の関係を説明する場合、しばしば引用されます。

 

ちなみに、冒頭に見える「書状両通」とは、『毛利家文書』587588号を指すと思われます。

 

587号で元就は、「ひたすら武道を心がけるべきで、今は歌も連歌も必要ない世の中である」とか、「隆元は鷹狩をすべきだ」とか、「隆元は大内氏の人質として山口に居たので鷹狩が好きではなくなってしまった」とか、「隆元は“山口かぶれ”だ」などと書いています。

 

588号で元就は広良に対して、「隆元を諫めてほしい」とか、「忠義の家臣には扶持を与えるべきだ」とか、「武道以外は必要ない世の中だ」とか、「隆元が心配だ」とか、「隆元は鷹狩をたしなんで山へ登り、蹴鞠もすべきだ」などと述べています。

 

隆元は文化的水準の高い大内氏のもとに、人質として滞在していた時期があり、そのせいか彼にはあまり武道のたしなみがなかったのかもしれません。

 

587号では、元就は隆元のことを「山口かゝり」=「山口流」と言っていますが、要するに「山口かぶれ」ということです。

 

元就はそうした隆元をかなり心配していたようです。

 

広良の「君は船、臣は水」という書状が出された背景には、元就の隆元に対する心配があったことが分かります。



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元亀二年(1571)、武田信玄が甲斐の慈眼寺に出した史料を読んでみたいと思います。

 

信玄は、六名の家臣を「祈祷奉行」という役職に任命しています。

 

そして、慈眼寺の僧侶たちがちゃんとお経を読んで、武田氏のために祈祷をするように、7ヶ条にわたる取り決めをしています。

 

信玄は、僧侶がお経を読んでいる間に、居眠り、私語、外出することを禁止しています。

 

大学の歴史学科でも、授業中に居眠りし、私語をし、教室から外へ出て行ってしまう学生はたくさんいました。

 

不真面目なのは現代の大学生だけではなかったことが、この史料から分かります。

 

面白いのが、信玄は僧侶が「みだりに大小便をすること」を禁止しています。

 

「便所を決めて大小便をしなさい」と書かれていることから、木陰などで、立小便や、座り大便をする僧侶がいたとしか考えれません。

 

また、僧侶が座席を壊すことを禁止する条項もあります。

 

この史料を読む限り、戦国時代の僧侶には、現代の不良学生のような連中がいたことが、分かるかと思います。

 

 

【原文】武田氏祈祷条規(『中世法制史料集 第五巻 武家家法Ⅲ』743)

(朱印)祈祷奉行

一番  賀津野次郎右衛門尉

    野村主水佑

二番  温井式部丞

    小幡又兵衛尉

三番  長坂五郎左衛門尉

    三枝備後守

一、二日宛在番之事、

一、経閑読之事、

一、三十三人悉相集而後読経之事、

一、睡眠幷他言之僧禁制之事、

一、当番之人、読経之間、禁足之事、

一、座席不可損之事、

一、叨不可大小便、兼而可定所之事、付、手水之事、

  以上

 具在前、

  元亀二年〈辛未〉

     十一月廿八日

 

【読み下し】

(前略)

一、二日ずつ在番の事、

一、経、閑読の事、

一、三十三人ことごとく相集まりて後、読経の事、

一、睡眠ならびに他言の僧、禁制の事、

一、当番の人、読経の間、禁足の事、

一、座席損ずべからざるの事、

一、みだりに大小便すべからず、かねて所を定むべきの事、付けたり、手水の事、

(後略)

 

【現代語訳】

(前略)

一、二日ずつ寺に在番しなさい。

一、お経は、声に出して読みなさい。

一、三十三人が全員集まってから、お経を読みなさい。

一、僧侶が居眠りや私語をすることは禁止します。

一、当番の僧侶は、お経を読んでいる間は、外出禁止です。

一、座席を壊してはいけません。

一、みだりに大小便をしてはいけません。あらかじめ場所を決めておきなさい。付則、便所で用を足しなさい。

(後略)


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天正九年(1581)、北条氏が相模国の浜居場城を守る番衆たちへ出した掟を読んでみたいと思います。

 

北条氏は、重臣である松田憲秀の代官として、須藤源二郎・村野安芸守・小澤孫七郎の三名を任命しました。

 

そして彼らが一人ずつ交替で、城代として守りを固める態勢をとったようです。

 

その浜居場城へ、北条氏は五ヶ条の掟を出しています。

 

第一条では、城の西の方へノコノコと出て行き、草木を取ったりすることを禁止しています。もし違反する者がいれば、小田原の北条氏へチクれ、と書かれています。

 

第二条では、人馬の糞尿は毎日城外へ捨てて、城を綺麗に保て。ただし城の近くへ捨てると汚いから、遠くへ捨てに行け、と命じています。「城一遠矢」という聞きなれない表現が登場しますが、距離を表す言葉だと思います。弓の射程距離を「遠矢」と表現し、「一遠矢」とは、弓の射程距離の一回分だと思われます。城から弓の射程距離一回分くらい離れた遠い場所へ、糞尿を捨てに行け、と命令しています。

 

第三条では、城を守る当番の者が、「鹿や狸を狩るんだ」などと言って、城外へ出ていくことを禁止しています。違反者は斬首とし、責任者である物頭も重罪とする、と取り決めています。

 

第四条では、物見の櫓に人を置いて、城から逃走する者を監視せよ、逃亡者を捕らえたなら忠節である、と取り決めています。

 

第五条では、夜中は厳密に城の守りを固めることを命じています。

 

以上、五ヶ条の掟が取り決められ、浜居場城を守る城兵たちへ命令が下されたわけですが、掟が下されるのは、禁止しないと困るからでしょう。

 

つまり北条氏の浜居場城では、①勝手に城から出て草木を取る者がいる、②糞尿が汚くて困る、➂鹿や狸を狩るために城外へ出る者がいる、④城から逃げ出す者がいる、⑤夜中は用心しないと危険、といった問題が想定されていたことが、うかがえます。

 

 

 

【原文】北条氏相模浜居場掟書写(『中世法制史料集 第五巻 武家家法Ⅲ』1003)

   はまいは掟

一、城より西之方へ、一切人不可出、假初ニも草木不可取、草木をハ於東之方可取、松田代指置間、自然番衆無用之所にて草木取候者、則小田原へ馳来、可披露候事、

一、人馬之糞水、毎日城外へ取出、いかにも綺麗ニ可致、但、城一遠矢之内ニ不可置、遠所へ可捨事、

一、当番之者城外へ出事、一切令停止候、鹿狸類之者取与号、山中へ分入事、努不可有之、自脇聞届候者、彼山へ入手、可切頸候、又於物頭も、可為重科候事、

一、昼夜矢倉ニ人を付置、自然闕落類之者見出、搦捕而来者者、不撰侍・凡下、可為忠節候事、

一、夜中之用心遣念、いかにも厳密ニ可致之事、

右、定所如件、

(天正九年)

 辛巳  (虎朱印) 

  六月十九日

    番衆中

松田代

  須藤源二郎

  村野安芸守 此内一人つゝ可有之、

  小澤孫七郎

 

 

【読み下し】

   浜居場掟

一、城より西の方へ、一切人出ずるべからず、かりそめにも草木取るべからず、草木をば東の方において取るべし、松田代指し置くの間、自然番衆無用の所にて草木取り候わば、すなわち小田原へ馳せ来たり、披露すべく候事、

一、人馬の糞水、毎日城外へ取り出し、いかにも綺麗に致すべし、ただし、城一遠矢の内に置くべからず、遠所へ捨つべき事、

一、当番の者城外へ出でる事、一切停止せしめ候、鹿・狸たぐいのもの取ると号し、山中へ分け入る事、ゆめゆめこれあるべからず、脇より聞き届け候わば、彼の山へ手を入れ、首を切るべく候、また物頭においても、重科たるべく候事、

一、昼夜矢倉に人を付け置き、自然欠け落ちたぐいの者見出し、搦め捕えて来たる者は、侍・凡下を選ばず、忠節たるべく候事、

一、夜中の用心念を遣わし、いかにも厳密に致すべきの事、

右、定むる所件の如し、

(天正九年)

 辛巳  (虎朱印) 

  六月十九日

    番衆中

松田代

  須藤源二郎

  村野安芸守 この内一人ずつこれあるべし、

  小澤孫七郎

 

 

【現代語訳】

   浜居場城の掟

一、城から西の方へは、一切出てはいけません。仮にも草木を取ったりしてはいけません。草木は城の東の方で取りなさい。松田憲秀の代官を派遣するので、もし(城を守る)番衆が無用な場所で草木を取ったなら、すぐに小田原へ参上して、披露しなさい。

一、人馬の糞尿は、毎日城外へ排出して、いかにも綺麗にしなさい。ただし、城から一遠矢以内に捨ててはいけません。遠くへ捨てなさい。

一、(城を守る)当番の者が城外へ出ることは、一切禁止します。鹿や狸の類を取るのだと言って山中へ入ることは、決してあってはいけません。別の人から聞き届けた場合、その山へ手を入れ、首を切ります。また物頭についても、重罪とします。

一、昼夜、櫓に人を置き、もし逃走する者を発見し、捕まえて来た者は、侍か一般人かを問わず、忠節です。

一、夜中の用心に念を入れて、いかにも(城の守りを)厳密にしなさい。

右のことを定めることは以上の通りです。

(天正九年)

 辛巳  (虎朱印) 

  六月十九日

    番衆中

松田代

  須藤源二郎

  村野安芸守 このうち一人ずつ代官を勤めます。

  小澤孫七郎



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