にせ茶人の歴史ブログ

『毛利家文書』や『明智軍記』、日本文化史の史料などを読んで勉強しています。

こうして織田信長は観音寺城に安座して、国民を撫育する仕置きを命令されました。

 

そうしたところに、佐々木六角義秀をともなって、蒲生賢秀・氏郷父子が日野谷から参上しました。

 

そのとき、信長の幼い弟である喜六郎殿・半左衛門殿の両人も、蒲生氏に同道していました。

 

これは、むかし織田・六角が和睦したとき、証人として六角氏に送られた人々でした。

 

信長はおおいに喜んで、蒲生を目の前まで呼んで言いました。

 

「先日からの厚意には、再三感心している。六角義秀は逆心の張本人であるから、死罪とするべきである。しかし今度の六角氏のていたらくは、ひとえに箕作城の六角承禎父子が侫人であることによる仕業であって、義秀の罪ではない。そのうえ、義秀は柔和な人物であり、それ以来、残酷なことをするような人物ではない。それなので、近江の貴賤を帰服させる仲立ちとして、しかるべき人物であるから、罪は問わない」

 

信長は観音寺の片原というところをしつらえて、義秀を入れ置きました。

 

本当に、「弱いことは人徳のもとである」と、古い記録にも書かれています。

 

その後、進藤山城守・後藤喜三郎も、木浜から信長に謁見のため参上しました。

 

このほか、青地・目賀多・山崎・平井・山岡以下、その数が分からないほどの近江の武士が、信長に降参しました。

 

こうして、足利義昭公は美濃岐阜を出陣して、永禄十一年(1568)九月二十三日、近江守山の宿駅に着陣したので、武功をあげた武士などが、各々御礼を申し上げました。

 

信長は観音寺城に、織田安房守信時に蒲生父子を加えた一千余騎を在城させました。

 

南近江の押さえとしては、丹羽長秀を大将として、市橋九郎左衛門・関安芸守・国分佐渡守・家所主馬助など二千余騎が、鈎郷に布陣しました。

 

そのほかの勇士三万余騎は、海陸を経て近江志賀郡へ移動しました。

 

永禄十一年(1568)九月二十六日、信長は三井寺に本陣をすえて、いよいよ軍評定をして、山城国へ乱入しました。

 

北からは比良越え、白河越え、そして志賀の山道をしのいで攻め上がりました。

 

南からの軍勢は、深草・藤森・稲荷山・阿弥陀峰・将軍塚・日岡峠に満ち満ちていました。

 

さて、京都では、「足利義昭公が織田信長を頼って攻め上がる」という風聞がしきりと流れたので、三好氏は「六角氏に合力して防戦すべきである」と議論していました。

 

そうしたところ、十四代将軍の足利義栄が、永禄十一年(1568)八月中旬から腫物を患っていましたが、九月十二日に二十五歳でついに死去しました。

 

三好氏をはじめとして足利義栄に味方していた者たちは、気力を失って、どうしたものかと呆れてしまいました。

 

今まで付き従ってきた兵士たちも、いつしか心替わりして、頼りを求めて退いてしまいました。

 

十三代将軍だった故・足利義輝公に恩顧のある者たちは、「今が好機である」と歓喜しました。

 

そのほか、公家・寺社の残党や、地下人・百姓にいたるまで、三好氏の与党を憎み、足利義昭公の御入洛をお待ちしていたところであったから、「足利義栄が亡くなったことは幸いである」、とささやきました。

 

治承(11771181)のむかし、源頼朝が伊豆・相模に義兵をあげたところ、平清盛が病気に犯されて亡くなった悲しみや、南北朝の動乱で新田義貞が討死したのち、暦応三年(1340)に後醍醐天皇が由ので崩御した嘆きも、このような悲しみだったのではないかと思い知られて、哀れでした。

 

京都にいる三好氏の残党が集まって議論しました。

 

「美濃から織田信長が攻め上がれば、近江の勢田で防戦しよう。また逢坂の関を封鎖しよう」

 

しかし軍議だけあっても、誰が大将として向かうべきかも決まりませんでした。

 

ただ評議ばかりで、いたずらに二日がすぎました。

 

その作戦に同意した者は、以下の通りでした。

 

 

・三好義継:五千余。京都室町の花の亭を要害として居住。

・三好山城守存保入道笑岩:四千余。淀城。

・松永久秀・久通:三千五百。北白河城。

・石成主悦助慶行・同備前守・三好新右衛門:二千五百。勝竜寺城。

・細川六郎氏元・三好釣閑・三好日向守長保:五千。摂津芥川城。

・松山松鎌・奈良但馬守:一千。高槻城。

・三好為三・同備中守:二千五百。茨木城。

・細川藤賢・同大和守・三好兵庫助:二千。小清水城。

・篠原右京亮・同玄蕃・東条紀伊守:千二百。滝山城。

・池田正久・乾紀伊守:千五百。池田城。

・遊佐長教:河内国長野城。

・十河一存・舎弟の久米助・木津但馬守:誉田城。

・帯刀左衛門・同弓之助・薬師寺貞春:岸和田城。

・安宅冬一:淡路由良城。

・野口久経:阿波岡崎城。

・三好長治:勝瑞城。

・一宮長門守:一宮城。

・井沢頼俊:切畠城。

・新開道善:富岡城。

・細川真之:讃岐。

 

 

彼らは、このように国々に居住して、勝手気ままに振舞っていました。

 

そうしたところに、この二~三年、上方に居住して召し抱えられていた足軽・小人、その他男女の類は、今度足利義昭公がご上洛なされるということを聞いて、おのれの住所から、家財・珍宝をはじめ武具・馬鞍にいたるまで、ことごとく盗み奪って、昼夜駆け落ちしました。

 

しかも、彼らが城中へ放火することも、たびたびにおよびました。

 

三好氏は、このありさまに当惑して、近日襲来する織田信長を防戦することも忘れ、茫然としていましたが、「しょせん京都は軍事的には地の利が良くない。各々が本国に帰って、重ねて大軍を起こし、敵を追い払うべし」と評議しました。

 

三好笑岩は淀城を出て和泉堺へ下り、三好義継は室町亭から河内若江城に帰り、松永久秀父子は北白河から大和信貴山・多聞山城へ落ち行きました。

 

さて、信長はこのことをお聞きになりましたが、「敵方にどのような計略があるだろうか」と、ますます軍法を堅固にして、洛中の騒動を鎮めました。

 

明智光秀は、諸方に軍勢が配置されたのをうけて、永禄十一年(1568)九月二十六日の早朝に、五百余騎を率いて、近江目賀田のあたりから兵船七艘に乗って、唐崎の浜に漕ぎ寄せ、そちら方面へは侍大将・林佐渡守光豊が二千余騎で進軍しました。

 

光秀は先陣として進み、白河越えの道を経て、京見峠を越えて、備えを立てて合図を待ち、それから北白河城に入りました。

 

そうして、信長は三井寺に二日間ご逗留になり、永禄十一年(1568)九月二十八日、恵日山東福寺へ本陣を移したので、義昭公は清水寺に御座をすえました。

 

そうしたところ、細川晴賢・京極高吉・荒木村重・筒井順慶・朽木貞綱は、日ごろから三好氏と不和だったので、今度の信長の上洛を喜んで、さっそくお味方に参上しました。

 

織田方の諸卒はこれを聞いて、「細川晴賢は敵である三好方で、小清水城にいる人物ではないか」と問いました。

 

細川晴賢はこれを聞いて、「そうではありません。私は細川澄元の子息で、細川晴元の舎弟です。三好方にいるのは、細川藤賢で、細川高国の次男で、細川氏綱の弟です。細川一族は、敵味方に別れています」と返答しました。

 

さて、三好・松永らが上方から落ちて住所へ帰ることを、三好方の石成友通が耳にして、「どうしようもない振舞ではないか。敵である織田方の旗先をさえ見ずに撤退することなどあるだろうか」と、勝竜寺城に籠城しましたが、信長は大軍を派遣して厳しく攻めたので、三日間ほど手ごわく戦って、その後城を開城して、南方を指して撤退して行きました。

 

その他、高槻・茨木・芥川・小清水・滝山・池田城以下は、信長の勇勢に恐れをなして、いずれも城々から撤退して、渡辺・福島・野田・尼が島・天王寺・久宝寺などに籠城しました。

 

これによって、信長は永禄十一年(1568)十月十五日、摂津池田から帰京しました。

 

義昭公は、六条本圀寺に御安座なされ、信長は清水寺に本陣を置きました。

 

このことを朝廷に奏聞したところ、正親町天皇はお喜びになって、義昭を参議に任じ、征夷大将軍に補任しました。

 

誠に軍威の功により、会稽の恥辱をそそぎ、義昭公は三十二歳にして、先祖の御跡をお継ぎになったことは、めでたいことでした。

 

信長も昇殿を許されたので、御威光は十倍となりました。

 

そうして信長は、畿内・洛中の法律・規則を正しく仰せ付け、将軍の守護として細川晴賢・明智光秀・津田左馬允・同左近・野村越中守・二階堂駿河守を京都に留め置いて、永禄十一年(1568)十月二十八日、美濃岐阜城へ帰陣しました。



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今回は、天正十二年(1584)ごろの、島津氏と「南蛮犬」に関する史料を読んでみます。

 

『上井覚兼日記』は島津氏の家臣・上井覚兼が記した日記で、そこに「南蛮犬」が登場します。

 

 

 

【史料1】『上井覚兼日記』天正十二年十月二十四日条

一、廿四日、(中略)、鎮貴より南蛮犬預候、寔々珎物之条、見物衆異于他候、義虎・麟台御同心にて犬御覧のため入御候、

 

【現代語訳】

一、二十四日、(中略)、鎮貴(有馬晴信)から南蛮犬を預かりました。あまりに珍しいので、たくさん見物衆がやって来ました。島津義虎・麟台(島津忠長)も同じく、犬をご覧になるためにやって来られました。

 

 

 

【史料2】『上井覚兼日記』天正十二年十一月三十日条

一、晦日、早朝出仕申候、如恒例、宮崎越之水鳥廿進上申候、阿多掃部助殿にて申上候、幷南蛮犬、今度従有馬殿預候、餘々珎犬にて候間進上申候由申上候、即上覧被成、御祝着之由也、此日武庫様御宿へ参候、即御見参被成、御酒御寄合被成、図書頭殿・忠棟・本田下野守殿なとへ水鳥進之候也、拙者も同礼儀ニ各へ参候、いつれにても御酒也、此晩、阿多掃部助殿にて、南蛮犬殿中へめしをかれ候て可然候するやの御占させられ候ヘハ、不宜候条、先々御望にて候へとも、拙者飼置申候て可然之由、蒙仰候也、

 

【読み下し】

一、晦日、早朝出仕申し候、恒例の如く、宮崎越の水鳥二十進上申し候、阿多掃部助殿にて申し上げ候、ならびに南蛮犬、今度有馬殿より預かり候、あまりにあまりに珍犬にて候間、進上申し候由申し上げ候、すなわち上覧なされ、御祝着の由なり、この日武庫様お宿へ参り候、すなわち御見参なられ、御酒御寄合なされ、図書頭殿・忠棟・本田下野守殿などへ水鳥進せ候、拙者も同じく礼儀に各々へ参り候、いずれにても御酒なり、この晩、阿多掃部助殿にて、南蛮犬殿中へ召し置かれ候て然るべく候するやの御占いさせられ候えば、よろしからず候条、先々御望みにて候えども、拙者飼い置き申し候て然るべきの由、仰せを被り候なり、

 

【現代語訳】

一、十一月三十日、早朝に出仕しました。恒例のように、宮崎越(熊本県)の水鳥を二十羽、(島津義久様に)進上しました。阿多掃部助(忠辰)殿を通じて進上しました。ならびに南蛮犬を、今度有馬晴信殿から預かっていました。「あまりにも珍犬なので進上いたします」と申し上げました。すぐに(義久様が)ご覧になり、「祝着である」とのことでした。この日、武庫様(島津義弘)の御宅へ参上しました。すぐにお会いして、酒宴となり、図書頭殿(島津忠長)・伊集院忠棟殿・本田下野守殿(親貞)などへ水鳥を進上しました。私も同じく挨拶に各々の御宅へ参上しました。そのいずれにおいてもお酒を飲みました。この晩、阿多掃部助殿に、「南蛮犬を(島津義久様の)殿中で飼うことはしかるべきか?」という御占いをさせました。すると、「よろしくない」という結果だったので、ともかく(義久様も南蛮犬を飼いたいと)お望みでしたが、「覚兼が飼うのがしかるべきである」という仰せでした。

 

 

 

 

史料1では、天正十二年(1584)十月、島津氏と友好関係にあった有馬晴信から、「南蛮犬」が贈られてきたことが記されています。

 

有馬晴信はいきなり島津義久に「南蛮犬」を贈るのではなく、島津重臣の上井覚兼を通じて、「南蛮犬」を贈ってきたようです。

 

「南蛮犬」はかなり珍しかったので見物衆が詰めかけ、島津義虎や島津忠長も見物にやって来ました。

 

ちなみに同年の三月に、島津・有馬連合軍は、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取っています。

 

有馬氏が島津氏へ「南蛮犬」を贈った背景には、両氏の友好関係があったようです。

 

有馬晴信はキリシタン大名だったので、貿易か、あるいは宣教師を通じて、「南蛮犬」を入手したのでしょう。

 

史料2によると、同年の十一月、上井覚兼は、有馬晴信から預かった「南蛮犬」を、島津義久に進上しようとします。

 

ところが、「島津義久の家で南蛮犬を飼うのは吉か凶か?」と占ったところ、どうやら「凶」と出てしまったようで、結局は覚兼が飼うことになりました。

 

「先々御望みにて候えども」=「とにかく飼いたかったけれども」と、義久の心中が記されていますが、義久は占いの結果に従ったようです。

 

『上井覚兼日記』には、合戦においてどのように軍事行動を取るかなど、重要事項を占いで決めている記事が散見されます。

 

そして島津氏は、犬を飼うか否かまで、占いで決めていました。

 

なんだか、ほのぼのしていますね。



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今回は、文禄三年(1594)に豊臣秀次が島津義弘の家中に宛てて、犬の進上を命令した史料を読んでみます。

 

 

【原文】(文禄三年)十月二日豊臣秀次朱印状(『島津家文書』412)

嶋津兵庫家中、鹿喰犬餘多有之由、被及聞召候、然者、御用候間、逸物之犬可上之候、兵庫事、高麗在番之儀候間、面々令馳走、此方使者可相渡候、委曲石田治部少輔可申候也、

(文禄三年)

十月二日 (秀次朱印)

      嶋津兵庫

        留守居中

 

【読み下し】

島津兵庫家中、鹿喰犬あまたこれある由、聞こし召し及ばれ候、然れば、御用候間、逸物の犬これを上ぐべく候、兵庫事、高麗在番の儀に候間、面々馳走せしめ、此方使者に相渡すべく候、委曲石田治部少輔申すべく候なり、

 

【現代語訳】

島津義弘の家中には、「鹿喰犬」がたくさんいるということを、お聞きになりました。それなので、御用があるため、逸物の犬を進上しなさい。島津義弘は高麗(朝鮮)に在陣しているので、(島津家中の)面々が奔走して、私(秀次)の使者に(犬を)渡しなさい。くわしくは石田三成が申します。

 

 

 

「嶋津兵庫」は島津義弘のことで、彼の家中には「鹿喰犬」なる犬がたくさんいると書かれています。

 

鳥猟で猟犬として使う犬を「鳥犬」と呼ぶことから、おそらく「鹿喰犬」とは、鹿狩りにおいて、猟犬として使われた犬のことを指すのだと思います。

 

「鹿喰犬」のウワサを耳にした豊臣秀次が、その中でも特に優れた「逸物の犬」たちを進上せよ、と命令しています。

 

そのころ島津義弘は、朝鮮に在陣中で留守であったため、島津家中の留守居の者たちに対して、「奔走して犬を渡しなさい」と命令が下されました。

 

ところで秀次と鹿狩りといえば、彼が秀吉から処罰された時の罪状の一つに、比叡山で鹿狩りをしたことがあげられる場合があります。

 

『大かうさまくんきのうち』に、秀次が鹿狩りと称して、山などで謀反の談合をしたと記されています。

 

『大かうさまくんきのうち』は慶長十年(1605)ごろの成立で、『信長公記』の作者として有名な太田牛一が著した史料ですが、秀次が山で談合した云々といった話はあまり信用できないと思います。

 

秀次がこの朱印状を出してから一年足らずの文禄四年(1595)七月十五日、彼は謀反の疑いで切腹します。

 

ちなみに、秀次の謀反の疑いを詰問したメンバーの中に、石田三成も含まれていました。

 

「鹿喰犬」の進上を命じた豊臣秀次朱印状の結びで、「委曲石田治部少輔可申候也」=「くわしくは石田三成が申します」と記されているのは、なんだか皮肉な感があります。



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