ここに、将軍足利義輝の弟である足利義昭は、織田信長をお頼みになって、逆徒・三好義継を滅ぼし、御本意を遂げようとしている、ということでした。

 

そもそも足利義輝は、足利尊氏から八代目の末裔であり、将軍になってからは十三代目に当たり、足利義晴の嫡子でした。

 

弘治・永禄(15551570)のころは天下がしばらく治まって、阿波の三好長慶、近江の六角義実など、各々が将軍に畏服したことにより、洛中は穏やかになって、諸人は安堵の思いでした。

 

そうしたところ、三好長慶と六角義実の両名がともに病死して、義実の子供である義秀は愚かにも、後見人の箕作城主である六角義賢入道承禎に国務を任せました。

 

三好長慶の子供である義継は若輩だったので、家来の松永久秀が万事を執り行いました。

 

これによって、礼儀はことごとく乱れて、上下ともに人々は行く末を危ぶみました。

 

そうしたところに、案の定、三好家臣の松永久秀は、主君三好義継に謀叛を勧め、密かに京都へ軍勢を送り、永禄八年(1565)五月十九日、にわかに将軍御所を取り囲みました。

 

そのころはしばらく世間が平和だったので、さしたる用心もしていなかったので、謀叛人(三好・松永)は思い通りに将軍居所に攻め入り、即時に将軍を殺してしまいました。

 

足利義輝は三十歳であったといいますが、無念なことでした。

 

義輝の弟の僧が二人いました。

 

奈良興福寺の一乗院と、洛外金閣の鹿苑院でした。

 

まず鹿苑院の周暠を殺害して、一乗院の覚慶をも殺害しようと、奈良へ討手を送りました。

 

覚慶はそれをいち早く察知して、春日山に逃げ入り、そこから伊賀国を経て、近江甲賀にお出でになり、六角義秀の家臣である和田秀盛の屋敷に移りました。

 

その後、矢島郷へ移って、還俗して足利義昭と名乗りました。

 

この六角義秀の母親は、十三代将軍の足利義晴のご息女で、義昭の姉だったので、六角氏は義昭に対して少しも疎略があってはならないのに、義秀は生まれつき頭が悪く、君臣の親疎のわきまえもなく、うかうかと暮らしていたので、一族の六角承禎・義弼が諸事を執り行っていました。

 

六角承禎父子は、三好氏と縁者だったので、義昭を尊敬してはいませんでした。

 

しかも三好・松永から密かに使者が派遣され、「還俗した義昭を急いで誅殺せよ」と言ってきたので、六角承禎父子はどうしようかと考えていました。

 

このことを義昭はかすかに耳にして、「それならば近江にいるのは危険である」ということで、密かに近江矢島郷を忍び出て、若狭小浜に行き、武田義統を頼りました。

 

義統は、実子がなかったので、六角義秀の弟である義頼を養子にしていたので、彼は義昭の甥に当たり、武田父子は義昭を崇敬しました。

 

しかし、若狭は小国なのですべてが不如意であるということで、もともと一番頼りにしていた越前の太守である朝倉義景へ、佐分利谷石山の武藤上野介を通じて、「義昭公は朝倉家をひたすらお頼みにしておられます」と申し入れました。

 

義昭からも副使として、大館晴忠を派遣したので、義景はかしこまって承り、すぐにお迎えとして一族の朝倉景鏡を若狭へ派遣し、永禄九年(1566)九月晦日、まずは朝倉領の敦賀の城へ、義昭をお移ししました。

 

敦賀の城主である朝倉景糺(故・朝倉宗滴の息子)と景恒の父子は、義昭を迎え奉って、馳走をつくし、すぐに義景の居城一乗谷へお移しすべきところ、そのころ義景の家来である堀江利茂という者が、朝倉氏に背くということがあり、坂北郡の領知を没収し、本庄の館を取り上げ、加賀の方へ追放しました。

 

この騒動によって、義昭はしばらく敦賀に逗留して、その後、一乗谷へお入りになりました。

 

お供の者は、仁木義正・大館晴忠・大館信堅・上野信忠・上野清信・一色晴家・一色藤長・伊勢貞隆・伊勢右京亮・武田信賢・三淵秋家・長岡藤孝・飯川信方・飯川肥後守・安藤泰識・杉原長盛・丹羽丹後守・大日治部少輔・曽我兵庫助・能勢丹波守・沼田弥十郎・牧嶋孫六郎を初めとして、上下130人あまりでした。

 

義景の尊仰は非常なもので、逆徒・三好義継を退治する計策をめぐらしました。

 

義昭はお悦びになって、「いよいよ戦さの評定があるべきなので、朝倉家の一族・郎従に対面したい」と仰せになりました。

 

義景は畏れ入りながら、義昭の上意に任せてお目見えした者は、朝倉景健・朝倉景行・朝倉景恒・朝倉景鏡・朝倉景連・朝倉景氏・朝倉景盛・朝倉景綱・東郷下総守・青蓮華近江守・鳥羽右馬助・三段崎権之頭・向駿河守・中嶋周防守・阿波賀但馬守・山崎吉家・前波景定・託美行忠・河合宗清・桜井元忠・印牧能俊・魚住景固・栂吉仍・溝江長逸・富田民部丞・小林備中守・波多野次郎兵衛・青木隼人佐らであり、各々が義昭に御礼をしました。

 

そうしたところ、加賀に流浪していた堀江利茂が、京都の三好・松永の誘いに乗って、加賀・能登・越中の一揆を催し、越前に対してたちまちに仇を結んで襲来する計画をめぐらしました。

 

すぐに、三好氏から金銀・衣類などまでおびただしい量が贈られ、委細の誓紙を書いて送り、「朝倉を悩ませて軍忠をあげれば堀江に越前を宛て行うであろう。加賀・能登・越中のことは、一揆たちの望みに任せるので、ひとえにお頼みする」などと三好氏は堀江に言って送りました。

 

堀江は大いに喜び、加賀石川郡の一揆頭である鏑木右衛門の居城である松任という所に集まって、「朝倉義景が公方を伴って上洛したならば、その後から越前に攻め入ろう」と支度をしたので、朝倉氏はこのことを聞いて、「国境に押さえの兵を置き、上洛しよう」と決めました。

 

「北国にはさしたる大した敵もいないけれども、欲にふける放逸無残の一揆たちは雲霞の如きもので、特に加賀から越前へ寄せ来たる道筋は多いので、一万の軍勢を残さなければ、上洛はかなわないでろう。朝倉家の軍勢は二万三千あまりで、若狭の武田が三千五百、合計二万七千のうち、所々へ押さえの兵を置けば、二万以下の軍勢である。特に、近江の六角承禎の動向が心底知り難いので、軽率に軍勢を出すことはいかがだろうか」と、軍議はまちまちで、数ヶ月がすぎました。

 

義昭はこのことをお聞きになって、「朝倉氏の思慮はいずれも理にかなっている。分国をつつがなくしてこそ、大軍を起こすのである。それなれば、美濃岐阜の織田信長を頼んで、鬱積を晴らしたい」と仰せになりました。

 

義景は承って、「朝倉家の者たちは義昭をおろそかには思っていませんが、三好の調略によって北国の一揆が蜂起したので、さだめて数日の合戦があると思われます。祖父朝倉貞景・父隆景・私義景の代にいたるまで、北国の悪党は越前に襲来したのは、永正三年(1506)八月二日からすでに五回目におよびます。毎回朝倉家が勝利してことごとく討ち滅ぼし、残党を追い返しました。敵はさだめてその鬱憤が残っているでしょうから、今度も工夫をこらした防戦になると覚悟しています。それなので、義昭公のご上洛が延引してしまうので、なにとぞお考えにお任せします」と申し上げました。

 

「それならば、まずは使者を送って、信長の心底を聞きたい」と義昭は仰せになり、上野清信・長岡藤孝を岐阜へ派遣しました。

 

信長は二人の使者に対面して、「私は先祖の平清盛の十七代の後胤ではありますが、民間に下ってのち、数代は斯波氏の陪臣として長らく年月が過ぎたところに、かたじけなくも君命をこうむったことは、私にとってこれ以上の面目はありません。今この時にあたって義兵を挙げ、忠勤を抜きん出て将軍の怨敵をたいらげ、御積憤をお晴らしすべきです。それなので、美濃へ御座をお移しになったならば、急いで軍勢を催し、すぐに逆徒を誅殺するので、後戻りすべきではありません」と申されました。

 

上野・長岡の二人の使者は、越前に帰ってこのことをくわしく申し上げたところ、義昭は非常に喜んで、永禄十一年(1568)七月十八日、一乗谷をご出発しました。

 

義景から路次の警固として、前波景貞が五百騎でお供して、敦賀津にお着きになりました。

 

ここから朝倉景恒の三百余騎が、前波に代わってお送りを勤めました。

 

そうしたところ、浅井久政はお迎えとして、従兄弟の浅井玄蕃・浅井雅楽助の兄弟を、刀祢坂まで派遣して、北近江の余呉庄に着きました。

 

浅井長政も木之本の宿まで参上して、義昭が小谷城へお入りになったところに、岐阜の信長から案内者として、不破光治・村井貞勝が派遣されてきたので、朝倉家の警固は小谷から帰りました。

 

浅井長政は関ヶ原の宿まで、義昭をお送りしました。

 

七月二十五日、義昭は岐阜の旅館にお入りになりました。

 

 

 

【コメント】

今回の記事を読むと、『明智軍記』の作者は朝倉贔屓なところがある、と感じます。

 

通説では、朝倉義景が足利義昭を擁して上洛の軍を起こさなかったのは、彼がやる気のない愚将だったからと理解されていますが、『明智軍記』ではそうした描かれ方はしていません。

 

『明智軍記』では、朝倉義景が上洛しなかったのは、朝倉氏に追放されて加賀に流浪していた堀江利茂が、京都の三好・松永の誘いに乗って、加賀・能登・越中の一揆を扇動し、越前に襲来する計画をめぐらしたから、と説明されています。

足利義昭も、「朝倉氏の思慮はいずれも理にかなっている」と発言しており、『明智軍記』の作者の朝倉贔屓ぶりが見て取れると思います。

 

『明智軍記』巻一の()「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」では、越前にある曹洞宗の永平寺の由来について、かなり詳しい記述がありました。

 

朝倉贔屓といい、永平寺のことといい、『明智軍記』の作者は越前ゆかりの人物であった可能性が想定されると思います。



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